田河水泡(本名:高見澤仲太郎 1899-1989)は、幼少期から青年期までを江東区で過ごした、本区ゆかりの漫画家です。
昭和6年(1931年)、大日本雄辯會講談社(現・講談社)の雑誌「少年倶楽部」に『のらくろ二等卒』を発表、爆発的な人気を博し、昭和初期を代表する漫画家となりました。
漫画「のらくろ」は、身寄りのない野良犬・のらくろが猛犬連隊という犬の軍隊へ入隊し活躍する物語です。最初は二等卒(二等兵)でしたが、徐々に階級を上げ、最終的には大尉まで昇進します。
自分の境遇にもめげず、明るく楽しく元気よく出世していくその姿を、当時のこども達は愛情を込めて応援しました。
平成10年(1998年)、ご遺族から作品や書斎机などの遺品が本区に寄贈されたことから、田河水泡が生涯愛し、その作品にも大きな影響を及ぼした深川の地に、平成11年(1999年)、「田河水泡・のらくろ館」が開館しました。
明治32年(1899年) | 2月10日、東京市本所区林町(現・墨田区立川)に生まれる。 本名・高見澤仲太郎。生家はメリヤスの家内工業。翌年、1歳の時、母・わきが死去する。 |
明治34年(1901年) | 父・孝次郎再婚のため、東京市深川区松村町(現・江東区福住)の伯母夫婦に預けられる。 |
明治38年(1905年) | 深川の私立の小学校入学後、市立臨海尋常小学校編入。 この頃、従兄の高見澤遠治が油絵の道具箱を持って時々遊びにきていて、それを見て油絵にあこがれる。 |
大正11年(1922年) | 日本美術学校図案科入学。杉浦非水、中川紀元の指導を受ける。 「三科インデペンデント」に出品。以来、抽象画を描く。 |
大正12年(1923年) | 前衛美術グループ「MAVO(マヴォ)」に参加、高見澤路直と名乗る。 グループのメンバーに村山知義、柳瀬正夢、佳谷磐根などがいた。 |
大正15年(1926年) | 講談社に創作落語を持ち込み採用される。筆名・高澤路亭。 |
昭和3年(1928年) | 初の連載漫画『目玉のチビちゃん』が「少年倶楽部」(講談社)で連載開始。 漫画の筆名として田河水泡を名乗る。9月、小林富士子(文芸評論家・小林秀雄の妹・筆名高見澤潤子)と結婚。 |
昭和6年(1931年) | 『のらくろ二等卒』が「少年倶楽部」の新年号より連載開始。 当初2年間の予定だったが爆発的な人気を博し、足かけ11年間にわたり連載・単行本化された。 |
昭和8年(1933年) | 『凸凹黒兵衛』が「婦人倶楽部」(講談社)別冊付録に5月号より連載開始。 |
昭和9年(1934年) | 『サザエさん』の作者・長谷川町子入門。16歳で早くも「少女倶楽部」(講談社)に連載漫画を描く。 |
昭和16年(1941年) | 内閣情報局より『のらくろ』他の漫画の執筆禁止令を受ける。理由は印刷紙の節約。 |
昭和33年(1958年) | 『のらくろ自叙伝』が「丸」(潮書房)10月号より連載開始。後の「のらくろ」リバイバルブームにつながるきっかけとなる。 |
昭和42年(1967年) | 『のらくろ漫画全集』(講談社)刊行。戦前の「少年倶楽部」に連載した第1回から中止になるまでの全部をそのままの形で集めたもの。この全集によって、第二次のらくろブームが起こった。 |
昭和56年(1981年) | 『滑稽の構造』(講談社)刊行。漫画や落語を題材として解説した笑いの研究本。 |
昭和62年(1987年) | 11月、勲四等旭日小綬章受賞。 |
平成元年(1989年) | 2月10日「田河水泡鳩寿(卒寿)とおたまじゃくしの還暦を祝う会」を90歳の誕生日に行う。8月「のらくろと火の鳥」手塚治虫夢ワールド展(日本橋・三越)に出品。12月12日、呼吸不全のため、北里大学病院にて死去。享年90歳。 |
「のらくろというのは、実は、兄貴、ありゃ、みんな俺の事を書いたものだ」(義兄・小林秀雄との会話のなかで)
「文藝春秋」1959(昭和34)年10月号より
「のらくろ」は、昭和6年(1931年)から16年にかけて、大日本雄辯會講談社(現・講談社)の雑誌「少年倶楽部」に連載された人気漫画です。田河水泡が、戦後もこの「のらくろ」を描き続けたことからもわかる通り、戦前の子供たちにとても愛されたキャラクターが「のらくろ」でした。
主人公「のらくろ」の本名は野良犬黒吉(のらいぬ くろきち)。小さな雑種の、しかも天涯孤独の野良犬です。
この「のらくろ」が、猛犬連隊という犬の軍隊へ入隊して活躍するという話が「のらくろ」の内容です。最初は二等卒(二等兵)でしたが、徐々に上等兵、伍長と昇進し、最終的には大尉にまで昇進します。
軍を除隊した「のらくろ」が大陸に渡り、友を得て開拓に挑むのが『のらくろ探検隊』。戦前最後の巻になります。
戦後の昭和33年、後編が月刊誌「丸」(潮書房)に発表されます。
『のらくろ召集令』、『のらくろ中隊長』、『のらくろ放浪記』、『のらくろ捕物帳』、そして昭和55年、『のらくろ喫茶店』では、喫茶店のマスターとなり、あこがれの“お銀ちゃん”と結婚。ここで「のらくろ」は完結します。
つまり、「のらくろ」の物語は、昭和6年、田河水泡が32歳のときの『のらくろ二等卒』に始まり、昭和55年末、田河水泡が81歳になるときの作品『のらくろ喫茶店』で完了するという、およそ50年に渡る大長編物語なのです。
「のらくろ」は、自分の境遇にもめげず、明るく楽しく元気よく活躍した当時の日本の国民的アイドルでした。勇気と知恵と行動力で社会の底辺から出世していく姿、実は失敗ばかりの武勇伝に、当時の子供達は、学校で奇抜なことをやらかす、茶目っ気いっぱいのいたずらっ子の動きをみる思いで共感し、これが大人気になりました。
みんなに愛された「のらくろ」は、これからもずっと愛され続けていくでしょう。
「のらくろ」の物語は、昭和6年(1931年)田河水泡32歳の時の『のらくろ二等卒』にはじまり、昭和55年末(1980年)『のらくろ喫茶店』で完了します。この時、水泡81歳。水泡は生涯「のらくろ」を愛し描きつづけました。
晩年は、旅先でのスケッチに「のらくろ」が登場してきます。コンテと水彩で仕上げました。
©田河水泡/講談社